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横浜地方裁判所 昭和51年(モ)897号 判決

申請人

首藤信一

申請人

安藤明

右両名訴訟代理人弁護士

山本安志

(ほか七名)

被申請人

昭光化学工業株式会社

右代表者代表取締役

七尾正一

右訴訟代理人弁護士

成富安信

星運吉

主文

一  申請人首藤信一と被申請人間の昭和五〇年(ヨ)第八六二号地位保全等仮処分申請事件および申請人安藤明と被申請人間の昭和五〇年(ヨ)第八七〇号地位保全等仮処分申請事件について、当裁判所が昭和五一年四月九日になした各仮処分決定をいずれも取消す。

二  申請人らの仮処分申請をいずれも却下する。

三  訴訟費用は申請人らの負担とする。

四  この判決は第一項に限り仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  申請人ら

主文第一項掲記の各仮処分決定を認可するとの判決

二  被申請人

主文第一ないし第三項同旨の判決

第二当事者の主張

一  申請の理由

1  被申請人は、医薬品、工業薬品の製造および販売を目的とする株式会社であり、昭和五〇年八月当時、東京都大田区羽田二丁目一五番二一号に本社および羽田工場を、肩書地(略)に相模工場を有していた。

申請人首藤信一(以下申請人首藤という。)は昭和四五年一〇月二七日、申請人安藤明(以下申請人安藤という。)は昭和三七年五月一四日、それぞれ被申請人に雇用され、昭和五〇年八月当時、いずれも相模工場に勤務しており、被申請人の企業内組合である申請外昭光化学労働組合(以下組合という。)の組合員であった。

2  被申請人は、申請人らを昭和五〇年九月二五日付で解雇したと主張して、翌日以降、申請人らを従業員として取り扱わず、賃金の支払もしない。

3  被申請人の賃金支払方法は、前月一六日から当月一五日までを一か月としこれを当月の二五日に支払うとの約であるところ、昭和五〇年六月ないし八月の一か月の平均賃金額は、申請人首藤が一二万七五〇八円、申請人安藤が一五万〇二二四円である。

4  申請人らは、被申請人から支払われる賃金を唯一の生活の資とする労働者であるから、もし本案判決確定まで賃金の支払を受けなければ生活に窮し、回復し難い損害を蒙る恐れがある。

5  そこで、申請人らは、横浜地方裁判所に、雇用契約に基づき、被申請人に対し、申請人両名が雇用契約上の地位にあることを仮に定めるとともに、同年一〇月二五日以降毎月二五日限り申請人首藤に対し一二万七五〇八円、申請人安藤に対し一五万〇二二四円を仮に支払うことを求める旨の仮処分申請をなしたところ、同裁判所は、昭和五一年四月九日、申請人らの申請をいずれも認容する旨の主文第一項掲記の各仮処分決定をなしたので、その認可を求める。

二  申請の理由に対する認否

申請の理由1、2、3の事実は認める。同4の事実を否認し、同5の主張は争う。

三  抗弁

1(一)  被申請人は、昭和五〇年八月二五日、申請人らに対し、被申請人の従業員就業規則(以下就業規則という)四二条四項および被申請人と組合との間で締結されていた労働協約四七条に基づき、同年九月二五日付で解雇する旨の意思表示をした。なお就業規則四二条四項には、「経営上の必要あるときは、その都度定める基準により解雇することがある。」、労働協約四七条には、「会社は、企業整備等やむを得ない事由により組合員の解雇を行なおうとするときは、一か月前に組合に内示し組合と協議決定する。」と規定されている。

(二)  本件解雇の理由は次のとおりである。

(1) 被申請人は、昭和二八年四月一七日設立された資本金二五〇〇万円の株式会社であり、羽田工場において医薬品であるチアミノ2・6ジメトキシピリミジン(以下DMPという。)を、その後増設した相模工場において工業薬品であるベンゾトリクロライド(以下BTという。)、塩化ベンゾイル(以下BCという。)、過酸化ベンゾイル(以下BPOという。)を製造しており、昭和四九年一〇月一日から昭和五〇年三月三一日の半年間の売上額は、DMP約三億九一五五万円、BT、BC、BPOその他約三億三四三七万円であった。ところが、昭和四八年のいわゆるオイルショックに端を発した不況により、昭和四九年一〇月頃から需要が減退し、特にDMPは昭和五〇年初め頃から売上が減少し、同年七月には売上の見通しがたたなくなって生産を停止するのやむなきに至り、一方、BCも五〇パーセントを占めていた輸出がなくなって国内売上だけとなり、わずかにBPOの一部が好転の傾向がみられたものの、それでも従来の八割程度であった。このような状況のもとで、被申請人がたてた羽田工場操業停止後の売上予想は、月間売上が八〇〇〇万円台から四〇〇〇万円台に落ち込むというものであり、右売上高をもってしては、製造原価すら大幅に割り、月平均の欠損額は約二五〇〇万円、更に当時借入金累計が約一二億円を越えていたことから、毎月約三〇〇〇万円以上の資金不足を生ずることになり、売上減少の原因が不況にあって、容易に景気が回復する見通しもなかったため、営業努力と共に早急な合理化策の実施を迫られた。

(2) そこで、被申請人は、まず、昭和五〇年二月一五日に、嘱託を解雇し、同年四月には、設立以来始めての役員管理職の賃金五パーセントカットおよび一般従業員の賃上げ抑制を実施して人件費の節減を図ると共に、交際費その他の諸経費の節減策も実施した。加えて、雇用保険法の適用がなされるのを機に、同月九日、組合と協定を締結して、同月一六日から同年七月一五日まで、全従業員を対象に一時帰休制を実施し、さらに、同月九日、組合と協定を締結して、同月一六日から同法の予定する限度である同年九月三〇日まで、再度一時帰休制を実施した。

ところで、昭和五〇年四月当時の被申請人の人員構成は、役員六名のほか、従業員が一三三名で、その内訳は、本社が二六名、羽田工場が四四名、相模工場が六三名となっていたが、前記の合理化策を実施したものの、業績は好転せず、結局、抜本的な施策である人員削減を実施しない限り企業の存続が危ぶまれるに至ったため、被申請人は、やむなく同年七月一〇日の役員会で、四〇名の人員削減を決定した。そして、同月一八日に、組合に対し四〇名の希望退職者の募集を申し入れ、その了解を得た後、期間は一応一週間と定めるが期間経過後も申出により希望退職扱いにすることとして同月二一日より募集を開始した。しかし、応募者は期間経過後の申出を含め一〇名にすぎなかった。

(3) そこで被申請人は、やむなく整理解雇の方法によることとし、同年八月六日、前記労働協約四七条に基づき組合に対し協議を申し入れた。そして、同日、被申請人は、組合との間で公開団交を持ち、人員整理案および解雇基準案を提示すると共に、翌七日の公開団交において、今後の経営見通し等を説明し、同月八日、一二日の両日、組合三役との事務折衝で解雇基準案の修正につき検討を加えたうえ、同月一四日の公開団交において、組合との間で解雇基準につき合意が成立し、確認書が作成された。なお、同月一五日には管理職数名および電気技術者で代替性のきかない一名を除く嘱託全員を解雇した。そして、被申請人は、同月二〇日の公開団交において、解雇基準該当員数等の説明をして具体的該当者について協議をし、同月二二日の公開団交において、解雇基準該当員数区分について組合の了解を得て、解雇人員、解雇条件等につき組合との間で合意が成立し確認書が作成された。これを受けて、被申請人は、同月二五日、申請人らを含む組合員一七名に対し、口頭で同年九月二五日付で解雇する旨の意思表示をなし、併せて、内容証明郵便でその旨通知し、同年八月二七日の公開団交において、組合に対し被解雇者の氏名と解雇基準該当事由を伝達したところ、組合は、従前の交渉経過から内容を了知していたため、異議なくこれを了承した。

(4) その後も羽田工場の完全閉鎖、残留従業員の相模工場への配転、管理職数名の解雇、法定員数外役員の退任その他の合理化策を実施したが、業績は依然悪化の一途をたどった。そのため、さらに一〇数名の人員削減の必要性がでてきたため、昭和五〇年一一月四日、組合に対し希望退職者募集の申し入れをなし、その了承を得て同月一一日から募集を開始したが、同年末までに三名の応募しかなかったため、昭和五一年一月六日、前記労働協約四七条に基づき組合に対し、解雇人数やその他の解雇条件を提示して協議を申し入れ、さらに同月二一日、同様の申し入れをなした。そして、組合は、同月三一日、組合大会を開催し、被申請人の整理解雇案を同意する旨の決議をなし、これを受けて、会社は、同年二月一七日、組合員七名に対し解雇の意思表示をなした。

(5) ところで、被申請人と組合との間で合意した解雇基準は、企業経営上の寄与貢献度の低位の場合を基準化したものであるから、合理的且つ客観的であり、また、本社羽田工場と相模工場とは距離的にも近く配転が可能であることや解雇の趣旨からいっても全従業員を対象に人選するのは当然である。申請人らの解雇基準とその該当事由は次の通りである。

(ア) 申請人首藤

解雇基準3(2)には、勤務が不熱心で出勤が常でない者として、「A出勤率が年間を通じ、九〇%以下の者」とある(なお、この基準は、昭和四七年一一月から昭和五〇年五月までを対象期間としており、同年六月以降は、一時帰休実施のため除外している。)が、申請人首藤は、右対象期間中の出勤率が七九・二パーセントである。

解雇基準3(5)には、常に心体に気力がなく、作業に危険が感じられる者として、「A病弱者、その他、職務遂行に支障のある者」とあるが、申請人首藤は、昭和四八年九月頃から昭和四九年二月頃まで、気管支ぜん息で入院し、その後も通院を続けている。

(イ) 申請人安藤

解雇基準3(1)には、職場規律を乱す者として、「B素行が不良で行動が暴力行為に及ぶ者」とあるが、申請人安藤は、申請外鈴木明彦に殴打する暴行を加えた。なお、右の基準は、企業再建に際し、人の和を保って効率をたかめる上で最大の障害となるのが暴力行為であり、組合からは、第一の基準とするよう強調されて、第一順位となったものである。

右基準3(1)には、「A集団生活に不適格な者」とあるが、申請人安藤は、平素から上司、同僚と折合が悪く、嫌悪されていた。なお、右基準は、爆発物を含む化学薬品を製造する職場においては、従業員の融和が必須の条件であるとの労使共通の認識から設定されたものである。

2(一)  被申請人は、昭和五一年七月二日の本件第一回準備手続期日において、申請人らに対し、就業規則四二条四項、労働協約四七条に基づき、予備的に再解雇する旨の意思表示をした。なお、被申請人は、即時解雇に固執するものでない。

(二)  解雇の理由は1(二)(1)ないし(5)のとおりである。なお、組合は、昭和五一年一月三一日の組合大会において、申請人らを解雇することを承認する決議をなした。また、解雇基準は、申請人首藤については、「職場配置替に不適な者(規模縮小による余剰者、および能力的にみおとりする者も含む)」、申請人安藤については、「不穏当な言動が多く会社、同僚に悪影響を与えた者」に該当する。

四  抗弁に対する認否および反論

1  抗弁1について

(一) (一)は認める。

(二) (二)(1)中、被申請人の設立年月日、各工場での製造品目および昭和五〇年七月にDMPの生産を停止したことは認め、その余は争う。

被申請人の業績が悪化したとすれば、それは被申請人の経営方針の誤りに起因するものである。すなわち、DMPは、抗生物質の開発により、数年前から売上の悪化が予想されていたのであるから、これに応じた適切な措置を実施すべきであったのに、漫然と生産を継続したばかりでなく、昭和四七年から昭和四九年にかけて四〇名以上の人員増をなしたり、あるいは不要な土地の購入や約一億八〇〇〇万円にのぼる塩素室への過大な設備投資をするなど不適切な対応をし、また、羽田工場では、産業廃棄物の違法廃棄により一時操業停止処分を受けるなどの経営方針の誤りや不誠実な経営態度が被申請人の現状を導いたことは明白であり、解雇を正当化できる経営上の必要がある場合や企業整備等やむを得ない場合に該当するものではない。のみならず、業績の悪化は、前記の不要な投資や過大な設備投資等による長年の累積赤字が主な原因であって、売上減は一時的なものにすぎず、事実相模工場は、昭和五〇年九月以降全面再開し時間外勤務をするなどし、年末の一時金、その後の賃上げ等については他企業と同レベルで実施するなど確実に業績が向上していたのであって、人員整理をしなくても、十分経営できる基盤があったというべきである。また、仮に、人員整理の必要があったとしても、被申請人主張の四〇名の人員は、何ら根拠を有しているものではなく、結局、大口債権者である光興業株式会社からの融資継続の条件にすぎないものであって、このことは、昭和四八年から昭和五四年までの被申請人が従業員に対し支給した一時金および賃上げの合計額は約二億二〇〇〇万円にのぼるところ、これは、昭和五一年以降昭和五四年まで申請人安藤が被申請人から支払われた賃金合計約七二〇万円の三〇倍に相当するものであり、少なくとも従業員三〇名の賃金の支払能力を有していたことを物語っていることからも明らかである。また、被申請人は、申請人らに対し、労務の提供を受けることなく、昭和五〇年一〇月二五日以降、賃金を支払っているのであるから、少なくとも右二名については、人員整理をしなくとも企業を継続できる資力を有していたものである。

(三) (二)(2)中、役員管理職の賃金を五パーセントカットしたこと、被申請人主張の一時帰休を実施したこと、人員構成が被申請人の主張どおりであること、希望退職者募集をなしたことは認め、その余は争う。

整理解雇は最後の手段であるから、解雇に先立ち、配置転換、操業短縮、希望退職者の募集等余剰労働力の吸収のために多面的な措置を講ずべきところ、被申請人は、その措置をとらないか、もしくは、とったとしても不十分であり、解雇を回避する努力を十分に尽くしていない。すなわち、(二)記載のごとく、従業員等の賞与、賃上げ等を抑制すべきであったのにその措置をとらず、一時帰休制の実施も、途中で人員削減案を出すなど形式的になされたにすぎず、希望退職者の募集もわずか一週間とあまりに短期間であったためその効果がでなかったのである。また、そもそも、被申請人は、羽田工場の土地および相模工場の遊休地をそれぞれ有していたのであるから、人員削減の前に右各土地を処分して借入金の返済等に充当すべきであったのであり、右処置をとれば、資金的にも時間的にも余裕ができ、希望退職者募集の期間も十分にとれ、整理解雇の手段をとらずにすんだものである。

(四) (二)(3)中、被申請人が、昭和五〇年八月二五日に、申請人ら組合員一七名に対し同年九月二五日付で解雇する旨の意思表示をしたことは認め、その余は争う。

後記のとおり、労働協約四七条に規定する協議決定は、組合大会の決議に基づくことを要する。仮に、組合の執行機関が決議したとしても、労働協約にいう協議決定でないことは明らかであり、しかも、被申請人と組合の執行機関はゆ着しているので、とうてい公正な協議決定を望むことができないのである。また、協議約款の趣旨は、組合の意思を反映させて、不当な人選を防止するためのものであるから、協議の対象は、解雇の必要性、解雇基準、解雇条件のほか解雇基準該当者の氏名およびその該当性の有無まで含まれるものと解すべきところ、本件においては、解雇基準該当者の氏名およびその該当性の有無が全く協議されていないので、協議が尽くされたとはいえない。

(五) (二)(4)中、羽田工場を完全閉鎖したこと、管理職数名を解雇したこと、法定員数以外の役員が退任したことは認め、その余は否認する。

(六) (二)(5)中、申請人首藤が、気管支ぜん息で主張の期間入院および通院していることは認め、その余はすべて争う。

被申請人主張の解雇基準は、企業再建の基準に役立つものとはいえず、恣意的なものであり、客観的、合理的なものとはいえない。すなわち、集団生活に不適とは、何をもって不適なのか不明確で判断に主観が入りやすいし、暴力行為とあるもその程度が不明であり、病弱者についても作業遂行上の支障の有無が不明であって、また現実に該当者が存在した勤務内飲酒者、勤務内賭博者等が基準に該当させられていない点で不合理である。また、羽田工場の業績悪化が、人員整理の原因であり、同工場の従業員は相模工場の仕事に不慣れでもあるから、羽田工場の従業員を優先的に解雇すべきである。

申請人首藤は解雇前一年間の出勤率は九〇パーセントであり、また気管支ぜん息とはいえ、作業を十分遂行し、支障がないのであるから、いずれの基準にも該当しない。なお、申請人首藤のほか出勤率九〇パーセント以下の者二名、勤務不熱心者一名が存在したのに、これらの者が検討の対象になっていない。

申請人安藤の暴力行為とされるものは、相手方にも著しい落度があり、それを暴力行為と呼ぶことは困難であって、このことは、組合の執行機関も認めていたほどである。申請人安藤のほか暴力行為者が二名存在したが、検討の対象になっていない。

2  抗弁2に対し

(一) (一)の事実中、主張の解雇の意思表示のなされたことは認め、その余を争う。

(二) 1(二)(1)ないし(5)に対する認否は、前記四1(二)ないし(六)と同じであり、その余は争う。組合が、昭和五一年一月三一日の組合大会で申請人らを解雇することを承認する決議をなしたことはない。

五  再抗弁

1  抗弁1に対し

(一) 組合規約によると、組合には、最高の決議機関として組合大会が設置されており、その処理事項として、一六条一〇号に「労働協約の締結改廃並びに重要なる労働条件に関する事項」と規定されているが、労働協約四七条の協議決定は、右重要なる労働条件に関する事項であることは明らかであるところ、本件解雇に関しては、組合大会は開催されていないので、協議決定の効力は生じなかったものであり、協議決定のない解雇は無効である。仮に、組合の執行機関が、被申請人との間で協議決定しても無権代理であって無効である。

(二) 被申請人と組合との間で、昭和五〇年八月一四日付で締結された確認書には、解雇基準該当者の取扱いにつき、「解雇基準に合致し、双方異議のなき者から解雇する。どちらか異議があった場合は、十分に協議し合意に達するまで解雇しない。」との規定があり、右にいう異議を述べる者は、被解雇者であるから、結局、右規定は、被申請人と被解雇者間において合意のもとに話合い、円満なる退職の意思表示のあった者から退職するというものであり、解雇には被解雇者の同意を要するとの趣旨であるところ、申請人らはいずれも本件解雇に異議を述べたのであるから、本件解雇は無効である。

(三) 本件解雇は、信義則に違反し、権利濫用として無効である。すなわち、整理解雇を行うに当っては、従業員を解雇しなければ企業の経営が破綻し、企業の存続が不可能になることが明らかな場合で、余剰労働力の吸収措置など解雇を回避する努力を十分すると共に、労働者に事情を説明して協議し、解雇基準および人選が合理的である場合にのみ有効と解すべきところ、本件解雇は、いずれの点をも満たしていない。

2  抗弁2に対し

(一) 解雇の意思表示の際、解雇予告手当を提供せず、また提供する意思のないことを明らかにしているから労基法二〇条に違反して無効である。

(二) 前記五1(二)と同旨。申請人らの同意のない解雇は無効である。

(三) 前記五1(三)と同旨。なお、予備的再解雇は、本件解雇に反対する申請人らを制裁し他の従業員への見せしめを唯一の目的とするものであり、この点でも重大な信義則違反があり、権利濫用として無効である。

六  再抗弁に対する認否

1  再抗弁1に対し

(一) (一)は争う。

(二) (二)は争う。

確認書の体裁、文言から異議を述べ得るのは組合であって、被解雇者ではなく、このことは、組合が、被解雇者が解雇基準に該当しない場合には、被申請人に解雇の撤回を要求するとの立場をとっていたことからも明白であり、また右のように解しないと、実質的に依願解雇となって就業規則四二条四項に基づく解雇とあい入れなくなる。

(三) (三)は争う。

2  再抗弁2に対し

(一)、(二)、(三)はすべて争う。

七  再々抗弁

再抗弁1(一)に対し、

1  被申請人は、労働協約四七条の組合との協議決定につき、組合大会の決議を要することは全く知らなかったものである。

2  組合は、昭和五一年一月三一日、臨時組合大会において、申請人らを解雇するについて承認する旨決議したので、協議は尽くされたことになった。

3  組合大会の決議がなくとも、組合の執行機関に恣意独断はなく、実質的に大会決議を経たのと同様に民主的公正さは担保されていた。すなわち、抗弁1(二)(3)記載のとおり協議決定は、組合員の一五名以上出席する公開団交によって行なわれ、団交終了後委員会を開催して、組合の意思決定をなし、職場委員は、自己の職場にもどって団交および委員会の経過内容の報告を行い、組合員の意見希望を集約してこれを委員会で報告し、団交では組合要求としてこれを反映させていたものである。しかして、組合員らは、組合大会を開催しないことで意見の一致をみていたが、これは、右のような経過で、状況を把握しており、あえて組合大会での決議を要しないと判断していたためである。

4  組合規約所定の手続は、組合内部の問題であり、組合の代表者が対外的に締結した協定の効力には影響しないものである。また、労働協約四七条には組合大会の決議に基づき協議決定する旨の条項はなく、労働協約の締結は法定の要式行為であるから、労働協約に記載のないことを協約の内容とはなし得ないので、組合大会の決議を経ていないことをもって労働協約四七条所定の協議が無効になるものではない。もともと組合規約所定の手続の履行と労働協約上の労使協議の有無は必然的に関連があるわけではない。さらに、本件のごとき人員整理の場合においては組合内部の規約上の手続違反を理由に人員整理の効力を否定することはできないものというべきである。

八  再々抗弁に対する認否

1  1は否認する。組合規約は、被申請人に通知済みで被申請人が組合規約の内容を知っていたことは明らかであり、また、本件のごとき整理解雇の際に組合大会を開催するのは常識であって、事実、第二次の整理解雇の際には、組合大会を開催している。よって、民法九三条但書の法意からいっても、組合大会の決議を経なかった協議は無効である。

2  2は否認する。昭和五一年一月三一日の組合大会で申請人らを解雇することを承認する旨の決議がなされていないことは、前記のとおりである。仮に予備的再解雇を承認する決議がなされたものとしても、本件解雇と予備的再解雇では、解雇基準等に差があり、とうてい同一視はできない。さらに本件解雇を承認する旨の決議がなされたとしても、そもそも、組合大会開催の通知が申請人らになされていないので手続的に瑕疵があるばかりでなく、実体的にみても、組合員の利益を保障し得るものではないから、協議として効力を有しないし、個々の組合員には対抗し得ないというべきである。

3  3は争う。公開団交は、執行委員、職場委員のみが出席でき、一般組合員は出席できないし、また、組合の執行機関は、被申請人とゆ着していたから、組合大会を開催しないと実質的公正を担保できなかったのである。このことは、本件解雇がなされた後、組合員の臨時組合大会の開催要求署名が三〇数名を越えていたことからもいえるところであって、事前に組合大会を開催していれば、異なった協議となった可能性は大きい。

4  4はすべて争う。

第三疎明関係(略)

理由

一  請求原因1、2、3の事実および抗弁1(一)の事実は当事者間に争いがない。

二  そこで、本件解雇が、就業規則四二条四項に規定する「経営上の必要あるとき」および労働協約四七条に規定する「企業整備等やむを得ない事由によるとき」に該当し、同条の有効な協議決定に基づいてなされたものであるかについて検討する。

1  解雇の必要性および解雇回避努力の有無

被申請人が昭和二八年四月一七日設立され、羽田工場でDMP、相模工場でBT、BC、BPOを各製造していたこと、昭和五〇年四月当時の被申請人の人員構成は、役員六名のほか従業員が一三三名で、その内訳は、本社二六名、羽田工場四四名、相模工場六三名であったこと、同月に役員管理職の賃金を五パーセントカットすると共に、同月一六日から同年七月一五日までと同月一六日から同年九月三〇日まで各一時帰休制を実施したこと、同年七月羽田工場においてDMPの生産を停止したこと、同年一〇月管理職数名を解雇し、法定外員数役員を退任させたこと、同年一一月に羽田工場が完全閉鎖となったことはいずれも当事者間に争いがなく、右当事者間に争いのない事実に、(証拠略)を総合すると、一応次の事実を認めることができ、右認定を左右するに足る疎明はない。

(一)  被申請人は、設立当初は羽田工場のみを有し、同工場でホモスルファミン等の医薬品、BC、BPO等の工業薬品を製造していたが、昭和三六年三月、本格的な工業薬品製造への全面進出を企図して相模工場を建設し、BC、BPOの製造設備を同工場に移設してからは、羽田工場は医薬品の製造のみとなって、以後両工場の生産体制は機能的に分化されるに至った。ところで、医薬品は、一般的に新薬品の研究開発による新陳代謝が激しく需要が数年程度しか継続しないため、必然的に製品の変更を余儀なくされ、羽田工場においても同様であったが、昭和四二年に、DMPの製造を開始し、その全量を第一製薬株式会社に販売することになってからは、業界における大手としてほぼ安定した製造を継続していた。もっとも第一製薬株式会社に販売されたDMPは、同社において、化濃性疾患の治療用あるいは動物の飼料への混合のための医薬品として製品化され、多数の中小企業に販売されていたため、被申請人が、必ずしも独自にDMPの需要を適確に判断することは容易でなく、専ら第一製薬株式会社の販売見通しに依存して同社との協議により生産量を決定せざるを得ない状況にあった。一方、相模工場ではBC、BPOのほかBTも製造し始め、BCの一部を主にアメリカ、ソ連等に輸出するほかは、大口の債権者である光興業株式会社等約一〇社の国内企業に販売していた。なお、以上の自社で製造した医薬品、工業薬品の販売のほかに総売上額の約一割弱に相当する他社製品を商品として販売していた。昭和四八年ころには、DMPを一五トン製造可能な設備を有するまでになり、一八トン以上の需要を前提にして生産増加を推進する第一製薬株式会社の求めに応じ、人員を増強するなどして生産を増大した結果、同年四月から昭和四九年三月までの上下両半期を通算して、初めて合計一七八〇万円の利益を計上し、昭和四八年九月には無配であったものの、昭和四九年三月には、一〇パーセントの配当をなすまでに至った。この業績の向上傾向は、同年四月から九月までの上半期にも継続して、一五〇〇万円にのぼる利益を計上し、一二パーセントの配当がなされた。しかし、同年一〇月以降になると、昭和四八年暮の石油危機の影響が経済全般に出はじめ、これに政府の総需要抑制政策等も加わって需要全般が減退し、その結果、昭和五〇年三月までの下半期の利益は約一〇八万円に減少し同期は無配に転落した。ところで、DMPは、戦後開発された抗生物質と比較して価格的に劣位であったが、これに加え、不況による一般的需要減退を機に動物飼料用の需要も急激に減少したため、昭和四九年暮頃から、第一製薬株式会社においては、製品化されたものを含めてDMPの在庫量が増加し、それに伴い被申請人の在庫も同様増加し、昭和五〇年三月ころには、第一製薬株式会社とのDMP引取に対する不安が出はじめ、ついに同年六月ころには、同社の在庫量が半年分以上と推測される中で、最大限三ないし四トンの引取しか期待できないことが判明した。こうした状態が続いたうえ、DMPを第一製薬株式会社以外に販売することも困難であったため、同年七月二日、DMPの製造を中止するのやむなきに至った。そして、同年一一月には、製造再開の見通しは全くなくなって、羽田工場を全面閉鎖することにより、同年四月から昭和五一年三月までの一年間(この年度から一年決算となった)の羽田工場の売上は前年比七九パーセント減の約一億五五〇〇万円に激減する結果となった。一方、相模工場のBT、BC、BPOも、国内の需要不振が継続し、昭和五〇年四月時点で相当の在庫を抱えていたが、特にBCについては円高による輸出面での打撃があり、前年契約のソ連向けが昭和五〇年七月に輸出したほかは輸出の見通しもなく、生産高は従来の三〇ないし五〇パーセント程度であって、わずかにBPOについては需要増が期待できたものの従来の約八割程度であった。その結果、前年後半の相模工場の一か月平均売上が約五五〇〇万円台であったものが、同年四月から七月までは約四〇〇〇万円台となり、羽田工場と合わせても前年後半の一か月平均売上約一億二〇〇〇万円台から約七〇〇〇万円台に落ち込み、これが翌年の春頃まで継続するという予想であった。しかし実際には羽田工場の在庫品の売上げもあり、また、工業薬品に対する若干の需要の回復もあって、相模工場だけでも同年九月以降月約五〇〇〇万円台の売上げとなり、それが継続したまま昭和五一年三月までの売上は、前年比で一二パーセント減の約六億四二〇〇万円となった。こうした工業薬品に対する需要の回復傾向は、昭和五一年四月以降も見られ、昭和五二年三月までの売上げは約七億六四〇〇万円となり、過去最高となった。なお、昭和五〇年四月から昭和五一年三月までの商品売上高は前年とほとんど変らず月平均約一〇〇〇万円台であった。ところで、被申請人の資本金は、昭和五〇年当時で二五〇〇万円であったが、相模工場の建設費、土地の購入費、新製品の研究開発費等は増資によることができずに多額の借入金でまかない、これに長年の営業損失が加わって累積した結果、昭和五〇年三月当時、流動負債が約六億五六〇〇万円、固定負債が約五億一七〇〇万円、引当金約三四〇〇万円で負債合計が約一二億円となっており、昭和四九年一〇月から昭和五〇年三月までの間に、支払利息と割引料合わせて約三九〇〇万円を支払いそのため、営業利益の四〇〇〇万円の大半を相殺してしまうほど経営の圧迫要因となっていた。これは、一連の合理化策を実施した昭和五一年三月時点でも同様であって、負債合計は、やはり約一二億円であり、昭和五〇年四月から一年間の支払利息および割引料は約九六〇〇万円にのぼり、同期の営業損失約三三〇〇万円を大幅に上回るものとなり、当期損失約八三〇〇万円の主要因となった。また、以上のようなDMPの生産停止、相模工場での売上減に、右借入金に対する利息の支払等を合わせると、昭和五〇年七月時点において、同年八月以降毎月約二五〇〇万円以上の経常損失が見込まれ、さらに、過去の原材料費の支払や設備費用の支払等のため毎月三〇〇〇万円以上の資金を要するが、その資金が不足し、金融機関や大口の債権者である光興業株式会社との融資交渉も、抜本的な合理化を実施しない限り、見通しがたたない状況であった。

(二)  被申請人は、以上のような諸状況に対し、次のような合理化策を実施した。まず、昭和四九年度の年末一時金交渉の際、組合に対し業績悪化傾向を説明し、場合によっては人員削減もあり得る旨示唆して協力を促していたところ、昭和五〇年一月七日には、羽田工場四名、相模工場二名の高年齢の嘱託を同月一五日付で解雇したい旨を申し入れ、公開団交の協議とその同意を得て、一か月期間を遅らせて同年二月一五日に右のとおり実施した。同時に、昭和四九年度には従業員一人当り月平均二〇時間あった時間外労働を同月から月平均六ないし七時間に規制することとした。そして、同年四月一日には、白幡社長が役員会および部長会においてより抜本的な合理化策を指示し、これに基づいて、諸経費の節減策として、機器備品類等の有効利用による耐用年数の長期化をはかり、修理費も昭和四八年度の実績額に押さえ、交際費も従前の五〇パーセントにとどめることを周知徹底させ、また、人件費の節減策として、賃上げは一般従業員については四月と一〇月に分割し、管理職については一二月に延ばして各実施し、役員報酬は据置とするほか、会社設立以来初めての管理職以上について賃金総額の二ないし五パーセントの範囲内での賃金カットをするなどし、当然ながら新規雇用もしなかった。さらに、雇用保険法が、相模工場については同年三月から羽田工場については同年四月からそれぞれ適用の対象となるのを機に、増加した在庫量調整のため、一時帰休制を実施することとし、同月二日、組合にその旨申し入れ、同月八日、休業期間は同月一六日から同年七月一五日まで、休業日は本社羽田工場は所定労働日の金曜日、土曜日、相模工場は所定労働日の月曜日、金曜日、土曜日、休業対象者は役員を除く全従業員、休業手当は基準内賃金全額、休業期間中の日数は出勤率算定には出勤として扱い、勤続年数に加算する等の条件で休業協定を締結のうえ、同年四月一六日から実施し、それと共に、時間外労働規制を一段と強化した。しかるに同年七月二日には、羽田工場での生産を停止せざるを得なかったこともあり、同月九日、再び組合との間で休業期間を同月一六日から雇用保険法の予定する限度である同年九月三〇日まで、休業日を本社羽田工場は原則として全休、相模工場はBPOの需要増により一日減少し所定労働日の金曜日と土曜日、その他は前回と同様の条件とする休業協定を締結し、同年七月一六日から実施したが、羽田工場では、技術部門等の数名を除き全休、相模工場は、二日休業となったがBPO部門のみ勤務形態が日勤制から二交替制と変更された。

(三)  このように、被申請人としては、種々の合理化策を実施してきたが、前記(一)のとおり、売上の減少による毎月の経常損失と資金不足は不可避であり、現状の人員体制を維持したまま推移すれば、多額の損失の累積によって早晩企業の存続が困難となると判断されたため、同月一〇日に役員会を開催し、抜本的な人員削減計画を検討した。それによると、医、工業薬品業界においては、従業員一人当りの一か月平均売上高が一五〇万円ないし二〇〇万円程度が通常の損益分岐点とされていたが、被申請人においては、過去最高の売上高を示した昭和四九年四月から昭和五〇年三月の一年間においても、従業員一人当りの一か月平均売上高は一〇〇万円弱となっており、もともと全般的に人員がかなり過剰であったことが明らかとなったので、これと前記被申請人の経営状態からして、同年四月当時の被申請人の従業員のうち約七〇名程度を削減する必要があるとされたが、従業員の犠牲を少なくするとともに、当面羽田工場において一部製造を再開できる場合の人数を残すこととして約四〇名程度を削減することが決定され、この人員削減により月約一一〇〇万円程度の人件費が節減されることが見込まれた。そこで、被申請人は、同月一七日、組合に対し、右人員削減計画を口頭で通告したが、これに対し、一連の合理化策の経過の中で、人員整理は極力避けるとの方針を決定していた組合は、いきなり解雇の方法をとることは妥当でないと反論し、まず希望退職を募集する方法をとることを主張した。そのため、被申請人は、これを容れて、同月一八日、改めて組合に対し、希望退職者募集に関する件と題する書面により、希望退職者募集の実施につき意見を求め、もし目標の定数に満たない場合は整理解雇もあり得ることをあわせて通告した。なお、右書面の内容は、被申請人の売上、経理状況、従前の合理化の実施状況を具体的数字で示して説明し、数十名の人員削減の必要性を訴えるものであって、その趣旨は、全従業員を対象に、賃金は基準内賃金を九月分まで、退職金は会社都合により各支給することを条件に、同月二一日から同月二六日までの間に四〇名の希望退職を募集するというものであった。組合は、被申請人の生産体制、売上状況から、この措置を結論的にはやむを得ないものとして了承したが、期間が短かかったためその延長を求め、その結果、所定の期間にこだわらず希望退職を申し出たものについては同様の取扱いをなすことで合意した。そして、被申請人は、同月二一日から前記の書面を掲示板に掲示すると共に、各職場に回覧するなどして希望退職者を募集したものの、同月二六日までには、組合員五名、嘱託一名の合計六名の応募者しかなく、改めて同月三一日まで期間を延長することとしたが、同年八月五日にいたるも応募者は増加しなかったため、被申請人は、目標人員の不足分については整理解雇の方法をとることを決定した。なお、同年七月末から八月にかけて羽田工場従業員を相模工場に配転する措置もとられた。

(四)  本件解雇を含めたいわゆる第一次人員整理および一時帰休制の終了後である同年一〇月二日、被申請人は、役員会において、大口の債権者である光興業株式会社の意見も徴して、再度再建策を検討し、その結果、羽田工場は生産の再開が困難のため残留していた工場長以下一四名の従業員を相模工場に配転し、また、職制機構簡素化のため管理職を解雇し、法定外役員を退任させ、さらに、技術部の廃止、営業部門の光興業株式会社への移管等の機構改革を実施した。しかし、羽田工場の完全閉鎖により、改めて約十数名の人員削減が必要となり、同月末ころ、組合に対し、希望退職者募集を申し入れ、その同意を得て、同年一一月一〇日から二一日まで募集を実施したが三名の応募者しかなく、同年末までにさらに一名の応募者があっただけであった。そのため、さらに、整理解雇をすることとし、昭和五一年一月六日、組合に対しその旨の申し入れを行い、同月二一日に、解雇人員は一〇名、解雇月日は同年二月一五日、解雇基準は高齢者ほか四基準として最終的な第二次人員整理の申し入れを行い、同月二九日には、解雇基準該当者の氏名を開示して組合の検討を求めた。組合は、同月三一日、臨時組合大会を開催して、被申請人の提案を承認する決議を行ったので、これを受けて、被申請人は、同年二月一五日、組合員七名に対し解雇の意思表示をなした。なお、同年一月中にも、二名の希望退職の応募者があった。このような合理化を実施したものの前記のように、昭和五〇年四月から昭和五一年三月までの営業損失は約三三〇〇万円で、当期欠損金は約八三〇〇万円にのぼり、前期の繰越利益七八万円を差引いても、次期に約七五〇〇万円の欠損金を繰越した。そして、同年四月から昭和五二年三月までは、需要の回復もあり約三〇〇〇万円の営業利益を出し、羽田工場の土地の売却もあり、損失は約四六〇〇万円と前期より減少したが、それでも繰越欠損金は約一億二二〇〇万円となった。

以上の事実によると、昭和五〇年七月当時において、羽田工場の主要製品で全売上高の約半分を占めていたDMPが、一般的不況に加えて販売競争に弱い医薬品としての特性もあって、その需要が激減して在庫量が増大し需要増大の見通しもないことからついに生産停止のやむなきに至り、また、相模工場においても同様製品の売上が減少していたところ、もともと被申請人の人員構成が過剰気味であったことに加え、経営を圧迫していた累積赤字も巨額なうえ、資金繰りも逼迫し、右生産減に対応した過剰人員を抱えたまま推移すれば、巨額な損失を生じ、企業の維持存続が早晩困難になったことは明らかであり、これを避けるべく企業再建のため人員整理を実施しようとしたことは、経営上十分な必要性があり、やむを得ない措置として是認することができ、また、人員整理に先立って余剰人員吸収のための十分な措置も講じていたものと認められる。

申請人らは、DMPは抗生物質と競合し数年前から売上の悪化が予想されていたのに適切な措置をとらず、かえって人員増加をしたり、あるいは不要な土地を購入したり約一億八〇〇〇万円にのぼる過大な設備投資をする等不適切な対応をした経営方針の誤りが業績を悪化させたものである旨の主張をする。しかしながら、DMPは、昭和四九年度ころまでは極めて売上の見通しが明るい製品で、そのため人員を増加させ生産の増大を図ったものであり、売上減をもたらしたものは一般的な不況によるもので、被申請人の経営規模、その構造からみれば、DMPに依拠していたからといって一概に経営上の方針の誤りとはいえないし、また、累積赤字の原因は、ひとり土地の購入のみならず新製品の研究開発費や営業損失が加わっていたものであることは前記認定のとおりであって、また、(証拠略)を総合すると、昭和三六年に相模工場を建設した後、大口の債権者である光興業株式会社が付近に土地を有していたことから、被申請人は、企業規模拡大のため、同土地を購入して羽田工場を相模工場の遊休地に移設して合理化を図ろうとしていたこと、昭和四九年暮には約一億八〇〇〇万円を投じて環境保全のために液塩素室を設置したが、これは法令上の義務に基づくもので、しかも遵守期間間際になしたものであることが一応認められ、右事実によると、右の各措置が必ずしも不合理であったものということはできず、他に累積赤字を増大させた原因となった経営上の方針の誤りを認めるに足る疎明はないから申請人らの主張は、採用できない。また、申請人らは、人員整理数四〇名は何らの根拠がなく、光興業株式会社の融資継続の条件にすぎず、むしろ、昭和四九年から昭和五四年までの賞与、賃上げ額の合計額は、申請人安藤を基準にして、三〇人分以上の賃金額に相当するから右人員数を整理しなくとも十分経営を継続する資力を有していたものであり、少なくとも、本件仮処分決定後は申請人らに労務の提供を受けることなく賃金を支払っているから申請人らについては整理する必要はなかったと主張し、申請人安藤明本人尋問の結果中には右主張に添う部分があるが、四〇名の人員の決定は、DMPの生産停止と相模工場の売上高、被申請人の人員数等からの損益分岐点を基礎としてなされたものであることは前記認定のとおりであり、申請人ら主張の事実をもってしてはいまだ四〇名の人員整理の必要性を否定し得るものではないから、いずれにしても申請人らの主張は採用できない。

申請人らは、一時帰休中に人員整理を提案していることから、一時帰休は形式的になされたにすぎないものであると主張する。しかし、DMPは、最大三ないし四トンの引取しか見込まれず、在庫量も増大していたために生産を停止するのやむなきに至り、一時帰休も全休にしたことは前記認定のとおりであり、一時帰休を実施したからといって、右の事情は変るものでないから、法の予定する期限以後のことを考え、抜本的な合理化を事前に実施することは必要なことであって、一時帰休が形式的になされたことを物語るものとはいえない。また、申請人らは、希望退職の期間が短かすぎるばかりでなく、羽田工場の跡地および相模工場の遊休地を売却し、借入金の返済に充当すれば、資金的、時間的にも余裕ができ人員整理をしなくても済んだ旨主張する。しかし、希望退職については、昭和五〇年七月二一日から二六日までと期間は定められてはいたものの、同月三一日まで延長され、さらに、期間経過後も申し出があれば希望退職扱いにするとされたものであって、それにもかかわらず応募者は右期間中が六名、同年八月二五日まででも九名であり、このことは、第二次の希望退職の際も同様で、一五人の募集に二か月余りで四名程度の応募しかなかったことは前記認定のとおりであるから、必ずしも募集期間が短かいとはいえないのであり、また、(証拠略)を総合すると、羽田工場の跡地は昭和五一年から昭和五二年六月までの間、相模工場の遊休地は昭和五三年初めに売却が完了したものであることが認められ、土地売却にはかなりの日数を要したものであるから、右事実と前記希望退職者の応募状況からみると、土地売却代金のみによっては、人員整理を回避することが困難であったと推認される。のみならず、人員整理の必要性はDMPの生産停止によるものであるから、借入金の一部を減らしたところでたかだか解雇の時期を遅らせることが可能なだけであって、いずれ生産減に対応した人員整理を実施せねばならなかったことは明らかであるから、申請人らの右主張も採用できない。

2  労働協約四七条の協議決定

(証拠略)を総合すると次の事実を一応認めることができる。

組合は、本社羽田工場を一、二区、相模工場を三、四区とする職場区分を設け、各区には、職場委員を各二名置き、職場委員は各区組合員を代表し、組合大会に次ぐ決議機関である委員会を執行委員と共に構成し議案を審議する権限を有し、職場の意見を委員会に反映させると共に委員会での決議事項を職場の組合員に報告していた。組合員は職場委員からの報告と、被申請人および組合の掲示する書面等により、被申請人の経営状態、一連の合理化対策、労使の交渉経過等を十分承知しえたし、希望退職および整理解雇の件も同様であった。同年七月三一日、本社羽田工場においては、組合員全員が参加して集会が開催され、執行委員会から予期される整理解雇等について説明がなされた際組合員から臨時組合大会開催の有無が質問されたが、執行委員がその意思がない旨答えたところ、一、二名を除き、組合員の大多数が右見解に同調した。また、相模工場の四区においては、申請人安藤他二、三名が職場委員に対し、臨時組合大会開催を要望していたが、同三区においては、そうした要望がみられなかった。こうした中で、被申請人は、同年八月六日、組合に対し、人員整理に関する件と題する書面により、人員整理を申し入れたのであるが、その内容は、整理人員数は希望退職者五名を含む社員二六名および希望退職一名を含む嘱託一四名、解雇月日は同年九月一五日、解雇予告日は同年八月一五日以前で特に希望として同月九日までの日、解雇条件は退職金規程により会社都合、賃金は九月分まで支給その他となっており、解雇基準は、嘱託については原則として全員解雇とするとされ、社員については、1勤務が不熱心で出勤が常でない者として、(A)出勤率が年間を通じ、九〇パーセント以下の者、(B)常に精勤手当未支給の者、(C)遅刻、早退、私用外出の多い者、2技能、技術的に劣り、作業に適さない者として、(A)考課結果が常に普通以下の者(D、E級)、(B)作業に集中力が無く動作の鈍い者、3常に心体に気力が無く、作業に危険が感じられる者として、(A)病弱者、その他職務遂行に支障のある者、(B)安全意識不充分な者、4職場規律を乱す者として、(A)集団生活に不適格な者、(B)素行不良で行動が暴力的である者、(C)風紀を乱し、同僚に悪影響を及ぼす者、5会社業績に貢献度の低い者として、(A)普通的であるが劣る者、6その他(解雇定員数に達しない場合)として、(A)定年に近い者(五五才以上の者)、(B)勤続年数の浅い者(二年未満の者)というものでほぼ就業規則所定の懲戒条項を利用したものであった。

同日、被申請人は、組合との間で、執行委員長、副執行委員長、書記長のいわゆる三役と他五名の執行委員会を構成する執行委員らと八名の職場委員が出席する公開団交を開催したが、組合は、整理解雇の趣旨についてはある程度理解したものの、人員整理対象者に管理職が含まれておらず一般従業員である組合員にしわよせがきていると指摘すると共に、事態に対する経営責任と今後の経営方針の明確化を要求し、経営努力による整理解雇の回避を主張したため、合意に至らなかった。

組合は、公開団交の後、執行委員会を構成する役員と職場委員とで構成される委員会を開催し、被申請人の人員整理案について検討した場合、人員整理そのものについては、やむを得ないものとして是認するが、解雇基準については、1(C)遅刻、早退、私用外出の多い者については認められた範囲内では処分の対象としないこと、2(A)考課結果が常に普通以下の者および同(B)作業に集中力がなく動作の鈍い者との基準については、考課を決定する職制に問題があるため、不適当であること、5会社業績に貢献度の低い者(A)普通的であるが劣る者については不適当であって全面削除すること、6(B)勤続年数の浅い者(二年未満)を一年未満と修正すること、を条件として受入れることとし、その基本は社会的にみて不当行為者ないし不良従業員を対象とし通常勤務者を含ませないとの決議が委員会の議決権者である職場委員八名の全員一致でなされ、また、組合大会開催の有無については、各職場区からの要望の実状報告がなされた結果、わずか一〇〇名程度の組合員であり、うち委員会委員が一〇数名も居て職場委員等からの報告も十分組合員になされることに加え、組合大会において、被解雇者の氏名をあげて決議することは、本人にとっても酷であるとの配慮もあり、特段の要望があった場合は、その時点で検討することとし、臨時組合大会の招集権をもつ執行委員会および執行委員長は、今回は、開催しない旨を表明し、職場委員の同意を得た。

職場委員は、各職場区にもどり、公開団交の経過および委員会の討議内容等を説明し、以後も、公開団交および委員会が開催される都度同様の手続がとられた。翌同月七日の公開団交においては、被申請人の白幡社長から、整理解雇の必要性と今後の経営の見通しと対策の説明があり、協力要請がなされたため、組合側は、整理解雇の必要性については、やむを得ないものとして是認したが、これを公平に実施するためにはまず解雇基準の設定が先決であると主張した。そのため、同月八日、被申請人と組合三役との間で事務折衝が行なわれ、三役は、前記委員会決議のとおり解雇基準の修正の申し入れをなし、特に職場規律を乱す者のうち暴力行為該当者を重視することを求めた。なお、嘱託等の非組合員については被申請人提案通りの実施を了承した。同月一二日、一三日に被申請人と組合三役との事務折衝を経て、同月一四日の公開団交および、これを受けた委員会の決議により、被申請人と組合との間で、解雇基準の合意がなされ、同月一五日に、同月一四日付の確認書が作成された。確認書の内容は、1人員整理実施に際しては、解雇基準に基づき厳正、かつ公平に審議すること、2嘱託については原則として全員解雇すること、3社員の解雇基準は、(1)職場規律を乱す者として、(A)集団生活に不適格な者、(B)素行が不良で行動が暴力行為におよぶ者、(C)風紀を乱し、同僚に悪影響をおよぼす者、(2)勤務が不熱心で、出勤が常でない者として、(A)出勤率が年間を通じ、九〇パーセント以下の者、(B)常に精勤手当未支給の状態の者、(C)遅刻早退、私用外出が規定より多い者、(3)技能、技術的に劣り、作業に適さない者として、(A)作業に集中力がなく、動作の鈍い者、(4)再入社している者、(5)常に心体に気力がなく作業に危険が感じられる者として、(A)病弱者、その他職務遂行に支障のある者、(B)安全意識不充分な者、(6)定年に近い者(五四才以上の者)、勤続年数の浅い者(八月一六日現在で、一年未満の者)、会社業績に貢献度の低い者(普通的であるが劣る者)とされ、4解雇該当者は、解雇基準に合致し、双方異議のなき者から解雇する、どちらか一方に異議のあった場合は、充分に協議し合意に達するまで解雇しないものとする旨、定められた。また、同月一四日の公開団交においては、被申請人から解雇基準該当区分人数と職域区分の説明がなされ、組合の検討を求めた。被申請人の人選は、各工場の製造課長、事務課長が補佐して最終的には工場長が決定するものであり、以後も同様の手続であったが、右被申請人の説明によると解雇基準(1)(A)集団生活不適格者一名、同(B)暴力行為者〇名、(2)(A)出勤率不良者四名、(3)作業不適者二名、(4)再入社二名、(5)(A)病弱者一名、(6)勤続年数一年未満八名の合計一九名(ママ)となっていたが、これを受けて開催された委員会では、被申請人提示の解雇基準該当人数と委員の考えている員数との相違が問題とされた。そして同月一五日には、前記確認書も掲示板に掲示され、各従業員も知るところとなって、従業員間では、解雇基準該当者についてある程度予測がつき共通の認識ができており、同日には、被申請人から、管理職三名、嘱託一二名に対し、同年九月一五日付で解雇する旨の意思表示がなされたが、なお、嘱託のうち一名は、相模工場の電気関係の有資格者であって代替性がなかったことから組合の同意も得て対象者からはずされた。同年八月一六日、羽田工場、相模工場の両事務課長と組合三役との間で事務折衝がなされたが、組合三役は暴力行為該当者がなく、勤続年数一年未満の者に該当者が多い点を批判し再考を求め、被申請人は、同月二〇日、組合との公開団交において、改めて、解雇基準別人数表を提示したが、それによると、(1)(B)暴力行為者が四名、(2)(A)出勤率不良者、(5)(A)病弱者が各一名増加し、(3)作業不適格者が一名、(6)勤続年数一年未満の者が六名減少し、その結果該当者は一八名となった。

これを受けて、委員会が開催され、職場委員からは、暴力該当者は、再建にとって一番の障害になるところであり、提示の四名は、羽田工場在籍者であるが、相模工場の在籍者で暴力行為をなした者として認識されている三名が含まれていないのは不当であるとの意見が大勢を占めた。そこで同月二一日、被申請人から白幡社長ら、組合側から執行委員長らが出席のうえ、事務折衝を実施した結果、同月二二日、被申請人から、解雇基準該当人員数の提示があり、これによると、委員会の主張どおり、(1)(B)暴力行為者三名増加したほか、(1)(A)集団生活不適が一名、(2)(A)出勤率不良が二名、(6)勤続年数一年未満が一名各減となり、合計は一七名となった。なお、この時点で被申請人は解雇基準該当者氏名表を作成していたので、組合に提示しようとしたが、組合はこれを求めなかった。また、同時に解雇予告日は同月二三日、解雇日は九月一五日との提案もなされた。このため、組合は、委員会を開催し、被申請人提案の解雇基準別人数について採決を行った結果、解雇基準を忠実に守り、適正な運用がなされた最も妥当な案として職場委員八名全員の賛成で可決された。なお、再入社該当者は他に一名いたが、業務上の必要から解雇しないことが了承された。そこで、組合としては、被申請人が故意に解雇基準を歪曲して解雇した場合については被解雇者からの申し出を待って委員会にかけ、被申請人に対し撤回を求めることとし、その旨を事前に組合員に徹底するため予め時間をとることとし、解雇予告日を八月二五日と変更すると共に被申請人にも十分説明を行わせることを要求することとした。この委員会の決議を受けて、同日被申請人と、組合の執行委員長との間で、人員整理に関し、次のとおり協議決定したことが確認され、その旨の確認書が作成されたが、その内容は、解雇基準は被申請人と組合が協議決定し、八月一四日付で確認書を取交し、解雇基準を決定したものであること、解雇数は、組合員一七名で解雇基準に基づき解雇人員の選定を行ったこと、解雇年月日は昭和五〇年九月二五日、解雇予告は解雇日の一か月前、解雇理由は経営上の理由により労働協約四七条、就業規則四二条四項によるものであること、解雇条件、退職金は退職金規定により会社都合扱い、賃金は基準内賃金につき一〇月分まで支給する等であった。この委員会の決定は、職場委員を通じ、従業員らに連絡され、申請人らの職場では、書面をもって回覧されたので、申請人らもその内容を知り、また確認書は掲示板に掲示されて、従業員に知らされた。そして、被申請人は、同月二五日、申請人らを含む組合員一七名につき同年九月二五日付で解雇する旨の意思表示をなすと共に、同日付内容証明郵便で通知し、同月二七日の公開団交において、組合に対し、同月二二日付で作成していた被解雇者の氏名と該当解雇基準を記載した文書を交付し、組合は、自ら認識していた者とほぼ一致していたためこれにつき異議なく了解した。なお、組合員一七名中には、旧執行委員経験者および現執行委員も含まれていた。その結果、人員整理者数は、社員のうち組合員二四名(うち希望退職七名)、非組合員四名(うち希望退職一名)、嘱託一四名(うち希望退職一名)の合計四二名となった。

右認定に反する申請人安藤明、同首藤信一の各本人尋問の一部はたやすく措信できず他に右認定を左右するに足る疎明はない。

申請人らは、労働協約四七条の協議決定は、最高の決議機関である組合大会の処理事項であり、組合規約一六条一〇項の「労働協約の締結改廃並びに重要なる労働条件に関する事項」に該当するものであるところ、本件解雇に関しては、組合大会は開催されていないので、組合の執行機関がなしたとしても、協議決定としての効力はない旨主張する。なるほど、労働協約四七条の協議決定は、組合規約一六条一〇項の労働協約の締結、改廃並びに重要なる労働条件に関する事項と解されるので、一般的には組合大会に附議され決定されなければならないものと解されるところ、被申請人は労働協約四七条の協議決定につき組合大会の決議を要するものであることを知らなかった旨主張し、右は、組合の執行機関の権限に加えた制限は善意の第三者に対抗しえない(民法五四条、労働組合法一二条、組合規約二九条)ので、その善意の第三者に該る旨の主張であると解されるから、そこで、進んで、右被申請人の主張につき検討するに、(証拠略)を総合すると、組合は、被申請人に対し、組合規約を交付しており、組合規約改正の際もその都度改正された組合規約を交付していること、従前、被申請人と組合との間での、賃上げ、一時金の交渉妥結、週休二日制の実施等、明らかな労働条件の向上の場合(これは組合規約一六条の但書によるものと一応認められる)はもちろん、三六協定、休業協定の締結、希望退職の募集に対する同意等必ずしも労働条件の向上といえない場合でも、規約上組合大会に次ぐ中間決議機関である委員会の決議に基づき、執行委員会すなわち執行委員長の権限で行ってきており、年一回一〇月の休日に、被申請人会社以外の場所で開催される定期大会(その日時は、被申請人にも通知される)で経過報告がなされるのが慣例となっており、臨時組合大会を開催したことはなかったこと、そのため、被申請人としては、本件整理解雇に際し、労働協約四七条に基づく協議決定につき、設立以来始めての人員整理であることに加え、前記のとおり、組合規約上、明白に組合大会の附議事項と解されないことからもわかるとおり、組合大会の附議する必要があるとの認識はなく、委員会の構成員でもある執行委員長他の執行委員会の構成員および職場委員の出席する公開団交の席上で交渉すれば十分と考えており、組合側も、組合員の要望もほとんどなく組合大会を開催しないことを早期に執行委員会で決定していたこともあり、公開団交および三役の事務折衝においても、一切そうした話はしなかったこと、申請人らを含めて組合員の間で臨時組合大会開催の署名活動等が表面化したのは、本件解雇後のことであり、以前にはそうした動きはなかったこと、もっとも昭和五一年一月の第二次の人員整理に際しては、被申請人は、組合に対し、組合大会を開催して承認決議をなすよう申し入れているが、これは、申請人らが組合大会の決議を経ない協議決定は無効である旨を地位保全等仮処分申請手続の中で主張していたためであることが一応認められ、右認定に反する(証拠略)の一部はたやすく措信できない。

右事実によれば、被申請人は、労働協約四七条の協議決定につき、組合大会の決議を要することを知らなかったものと一応認めるのが相当であり、してみれば、組合大会の決議がなかったことをもって、労働協約四七条の協議決定の効力が左右されるものではなく有効というべきである。

次に、申請人らは、労働協約四七条の協議の対象は、解雇の必要性、解雇基準、解雇条件の他解雇基準該当者の氏名およびその該当性の有無まで含まれるところ、本件解雇に際しては解雇基準該当者の氏名およびその該当性の有無が全く協議されていない旨主張する。なるほど、本件解雇に際して被解雇者の具体的氏名が開示されなかったことは前記認定のとおりであるが、昭和五〇年八月一四日に解雇基準の合意がなされ、被申請人から組合に対し被解雇者の解雇基準該当数と職域区分の説明がなされた後、組合は右解雇基準が公平に運用されるよう被申請人と慎重に協議を続け、その過程で組合としては、具体的該当者についてほぼ認識を有していたこと、同月二二日、被申請人から、組合に対し、解雇基準該当者名と該当解雇基準を記載した文書の提示の申し込みを受けながら、組合は、これを受け入れずに、本件解雇をなすことに同意し、本件解雇後同月二七日に、被申請人から、前記文書の提示を受けて、これを了承したことは、前記認定のとおりであるから、これによれば実質的に被解雇者の解雇基準該当性について協議しているものというべく、労働協約による協議がなされていない旨の申請人らの主張は採用できない。

さらに、申請人らは、被申請人と組合三役は、ゆ着しており、公正な協議決定は望めない旨主張し、(証拠略)中には右主張に添う部分があるが、前記認定の協議決定の経緯および(証拠略)に照らしてたやすく措信できず、他に右主張を認めるに足る疎明はない。

以上によれば、本件解雇について、被申請人と組合との間で、労働協約四七条の適法な協議決定がなされたものというべきである。

3  解雇基準の合理性と申請人らの基準該当性

ところで、整理解雇の場合の解雇の基準は、企業の再建の趣旨を基本とすることは当然であり、企業運営秩序、経営効率、労働者の不利益等を総合し、且つ、運用面においても可能な限り主観を排除して、余剰労働力の生じた原因、余剰労働力の吸収の可能性、余剰人員数、各解雇基準該当人数に照らして相対的優劣に応じて慎重に定めることを必要とするところ、本件解雇基準は、企業運営および秩序上支障となる懲戒事由該当の者(基準(1))、業務遂行能力の低い者(基準(2)、(3)、(5))、相対的に企業に対する貢献度が低いか労働者の不利益が少ない者(基準(4)、(6))を類型化したものであって、また前記認定のとおり、職場委員等を通じ組合員の意思も十分反映していたと一応推認できる組合との間での数度の協議により合意に達したもので、当該時点における再建の趣旨にも適合し、客観性、合理性があるというべきである。

申請人らは、羽田工場の業績悪化が人員整理の原因であり、また、同工場の従業員は、相模工場の業務に不慣れでもあるから羽田工場の従業員を優先的に解雇すべきであったと主張するが、弁論の全趣旨によると、羽田工場と相模工場は近距離にあって、相互に従業員の配置転換を実施していること、医薬品も工業薬品も化学薬品であることに変りはなくその製造工程に著しい差異があるとはいえず、医薬品の製造業務に従事していた者が工業薬品の製造業務に従事する際の不慣れは一時的なものにすぎないものと思われることが一応認められ、また、もともと優秀な労働力のみを結集して企業運営の合理化、効率化を図ろうとする整理解雇の趣旨からすれば、羽田工場の従業員を優先的に解雇する合理的理由はないというべきであるから、申請人らの右主張は採用できない。

そこで進んで申請人らの解雇基準の該当の有無につき検討する。

申請人首藤について

(証拠略)によると、申請人首藤は、解雇基準3(2)(A)、3(5)(A)に各該当するものとされ、そのうちでも解雇基準該当区分数の関係では3(2)(A)が重大として判断されたことが一応認められる。

(一)  一般に欠勤は、労務の不提供という基本的な雇用契約債務の不履行であるから、これを整理解雇基準とすることは、勤労意欲および仕事への寄与度を就労日数の面から観察し、その低位の者を排除しようとするものであって、合理性があるというべきである。ところで、(証拠略)によると、申請人首藤の計算対象期間中〔昭48・12~51・5―編注以下同〕の所定労働日数〔七〇二日〕、自己都合欠勤日数〔一八四日〕、出勤日数〔五一八日〕は別表(略)のとおりであることが一応認められ、総出勤日数を総所定労働日数で除せば、出勤率が約七四パーセントになることが計数上明らかである。しかして、申請人首藤が昭和四八年九月ころから昭和四九年二月ころまで気管支ぜん息で入院し、その後も通院していることは当事者間に争いがなく、これに(証拠略)を総合すると、申請人首藤の同年四月以降の欠勤は、週一回ないし二回必要とする通院のためであり、以後現在に至るまで通院していること、なお、病院から被申請人に対し申請人首藤を通院させるようにとの指示があったこと、そうしたことから従業員の間でも、申請人首藤は、出勤率が最も悪い三名のうちの一名と認識されていたこと、申請人首藤と同様の解雇基準で解雇された者三名の出勤率は八六パーセント、八七パーセント、九〇パーセントであり、八七パーセントの者を除く他の二名は出勤率九〇パーセント以下の基準のみに該当するとして解雇されたものであり、申請人首藤と右三名のほかに出勤率九〇パーセント以下の従業員はいなかったことが一応認められ、右認定に反する(証拠略)はたやすく措信できず、他に右認定を左右するに足る資料はない。

以上によれば、申請人首藤が前記解雇基準に該当することは、明らかである。

(二)  一般に病弱者は、作業能力が通常人に比べて劣り、あるいは遅刻、早退、欠勤等をするなどして職務遂行に支障をきたすものと認められるから、整理解雇基準にすることは合理性があるというべきである。ところで申請人首藤が、昭和四八年九月ころから昭和四九年二月ころまで気管支ぜん息で入院し、その後も現在に至るまで通院し、そのため必然的に欠勤が多かったことは前記のとおりであって、(証拠略)によると、右気管支ぜん息のため作業内容、勤務時間体制の関係上、申請人首藤を適正な作業配置に就かせることが困難であったことが一応認められ、右認定に反する(証拠略)はたやすく措信できず他に右認定を左右するに足る疎明はない。してみれば、申請人首藤が前記解雇基準に該当することは明らかである。

申請人安藤について

(証拠略)によると、申請人安藤は、解雇基準3(1)(A)および(B)に各該当するものとされ、そのうちでも解雇基準該当区分数の関係では3(1)(B)が重大として判断されたことが一応認められる。

(一)  一般に暴力行為は、懲戒処分事由の典型的なものであって、暴力行為を解雇基準にすることは合理性があるというべきであり、本件においても、解雇基準の設定および解雇基準該当数の確認に際し、組合は、暴力行為こそが被申請人の企業再建にとって最大の障害となるとの認識に立っており、被申請人も最終的にこれに同調したことは前記認定のとおりである。申請人らは、本件解雇基準にいう暴力行為の程度が不明である旨主張するが、暴力行為自体は客観的に定まるものであって、その程度如何は、解雇人員数、他の解雇基準の該当人数、暴力行為該当者数等を考慮してその人選の過程の中で自から序列化されて判断されるものであり、基準が不明確ということにはならないから、右主張は採用できない。ところで、(証拠略)を総合すると、申請人安藤は、安全衛生委員であった昭和四六年五月七日、相模工場において、申請外鈴木明彦が、危険物であるメタノールを使用後速やかに所定の位置に保管せずこれを放置していたことに注意を与えたところ、同人から後でやる旨反論されたことから口論となり、左手に所持していた長さ約四〇センチメートルの鉄製のバールでヘルメットを着用していた同人の頭部を殴打する暴行を加え、同人に傷害を与えこそしなかったものの、ヘルメットにはヒビが入ったこと、このため、申請人安藤は、被申請人から始末書を徴される譴責処分を受けたこと、右暴行の事実が他の従業員の知れるところとなり、他の従業員や前記鈴木自身も申請人安藤と一緒の職場では危険と考え、被申請人に配転申し入れをなし、鈴木は羽田工場に配転になったこと、右以外にも、申請人安藤は、暴力的な言動が多く、他の従業員から不安を抱かれていたことが一応認められ、(証拠略)中右認定に反する部分はたやすく措信できず、他に右認定を左右するに足る疎明はない。

以上によれば、申請人安藤は、前記解雇基準に該当するものといわざるを得ない。申請人らは、前記鈴木にも落度があったと主張するが、右の点に関する限りにおいては所論のとおりであるが、解雇基準は、前記のとおり、解雇人員、解雇基準該当者数等の総合判断にたっての相対的なものであるから、被害者に落度があるからといって解雇基準に該当しないということはできないばかりでなく、前記暴行の態様、結果や、日頃の言動等を合わせ勘案すれば、右解雇基準に該当することは明らかであるから、右主張は採用できない。

(二)  (人証略)によれば、被申請人は、その業務の性質上、危険物を取り扱うことが多くまた集団的な作業が不可欠のため、協調性を欠くことが作業遂行上重大な障害となることが一応認められ、右事実によると前記解雇基準もその必要性の点からは合理性を認めることができる。ところで、(証拠略)を総合すると、申請人安藤は地声が大きいこともあって、威圧的言動が多く、上司、同僚との協調性がないため、集団作業でなく単独作業をさせられていたこと、被申請人の解雇基準該当者の人選は、職制以上の者が行っていたが、終始申請人安藤は、その該当者の中に入っていたことが一応認められ、右認定に反する(証拠略)はたやすく措信できず、他に右認定を左右するに足る疎明はない。右の上司、同僚との協調性がないため単独の作業に就かせられていたことと、前記の暴力行為等を総合すれば、申請人安藤が集団生活に不適格な者と判断されてもやむを得ないといわざるを得ず、前記解雇基準に該当するものというべきである。

三  次に申請人らの再抗弁1(二)(三)について検討する。

1  申請人らは、本件解雇について申請人らの同意を要するところ、申請人らは異議を述べている旨主張する。

ところで、(証拠略)によると、被申請人と組合との間の昭和五〇年八月一四日付確認書四項には、「1解雇基準に合致し双方異議のなき者から解雇する。2どちらか異議があった場合は、十分に協議し合意に達するまで解雇しない。」と記載され、また、末尾には、「以上確認の証しとして、本書二通を作成し双方一通を保有する。」と記載されていることが一応認められ、また、確認書の解雇基準に従い、被申請人から解雇基準該当人員数の提示とそれに対する職域区分が説明され、これを受けて、組合は、自らの認識している事実に基づき、被申請人と協議し、最終的な解雇基準該当人数が決定されたこと、組合では被申請人が合意した解雇基準を曲げて解雇した場合には、委員会にかけ撤回を求めることにすると共に、被解雇者に対しては、十分な説明をなすよう被申請人に要求したこと、被申請人から、組合に対し、本件解雇後、解雇基準該当者名と該当基準が開示され、組合は異議なく了解したことは前記認定のとおりであるから、これによれば、右確認書により異議を述べうる者は被解雇者ではなく、組合であることは明白であり、被解雇者の同意がなくてもそのことのみで本件解雇の効力に影響を及ぼすものとは認めがたいので、申請人らの主張は理由がなく採用できない。

2  次に申請人らは、本件解雇は、整理解雇をなす際の要件に欠けたものであって信義則に違反するか権利濫用として無効である旨主張するが、前記二で認定判断したとおり、何ら整理解雇の要件に欠けるものとは認め難く、他に、右主張事実を認めるに足る資料はないから、これを採用できない。

四  以上によると、本件各仮処分申請は、爾余の点について判断するまでもなく被保全権利の疎明がないことに帰し、事案の性質上保証をもって疎明にかえることも相当でないので、主文掲記の各仮処分決定をいずれも取消し、申請人らの申請をいずれも却下することとし、訴訟費用の負担につき民訴法九三条、八九条、仮執行宣言につき同法七五六条の二、一九六条一項をそれぞれ適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 瀧田薫 裁判官 吉崎直弥 裁判官 飯渕進)

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